MR.TORTURE | 第01話 人喰男



///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// 先頭頁 > 第01話 人喰男 > 第02話 背徳の嬰児

chapter1

十八世紀の終わり、イギリスの産業革命も終わりかけた頃の話だ。工場の灰煙でぼやけるロンドンの東端に、イーストエンドという街がある。輸入農作物の打撃を受け、共同耕地をジェントリ(地主)に奪われた農民。機械化により家庭内手工業を失い、職を求め上京する労働者。修道院が解体し、身を寄せる場所を無くした貧民達。それらをひっくるめたのがイーストエンドの住人だった。彼らから身を潜めるように、人喰男はイーストエンドのスラムにひっそりと産み落とされた。



イーストエンドは当時、ロンドンで最も貧しい地域だった。食肉工場が多くあったが廃水設備はないに等しい。家畜のはらわたや糞尿はそのまま川や下水に放り込まれていた。汚水は悪臭を放ち、枝分かれしながら街中に流れていく。イーストエンドの住人は川の水を飲み、排水の貯まり場で暮らしている。その為、この地域を中心に赤痢やチフスなどの疫病が蔓延していた。

「ストラスフォードの食肉工場へ、この手紙を届けてくれないか」

疫病を患った中年の男がイーストエンドを歩く少年に声をかけた。少年はお使いの途中だった。足を止めて男の顔を見ると、男の目は充血して、喉をぜいぜい鳴らしている。身体に気味の悪い斑点が浮いていた。イーストエンドに蔓延する疫病によるものだと一目で分かる。少年の母親も同じ病を患っていたからだ。

少年は食肉工場へ向かうと、皮エプロンをさげた工夫に手紙を渡した。受け取った男の爪の間には赤黒いものがびっしり詰まっていて、その指で頭を掻き毟り、フケをふりまいていた。目の前の不潔な工夫、工場から漂う鼻がバカになりそうな異臭。少年は一瞬で肉嫌いになった。男は手紙から少年へ、突き出た大目玉を移し、黄色い乱杭歯をむき出しにて言った。

「おめえ悪い子なんよな?」

不審に思った少年が、工場夫の持つ手紙をそっと覗く。



元気の有り余った声で悲鳴を上げた少年の首が一回転した。乱杭歯の男は血泡をふく少年を作業場へ放り投げ、肉の潰れる音と共に工場の扉が閉まる。ウエストエンドへ出荷する食肉の秘密。イーストエンドでよく見る風景の一つだった。

イーストエンドを含む貧民街では物価が高騰している。疫病を治療する為の医薬品を含め、食料品も値上がりし、街の肉屋ではどんな肉でも一ポンドから五ポンドもするというありさまだった。病気にでもなろうものならそれで終わりで、薬も飲めず、のたうち回って苦しみ抜いた末に死なねばならない。貧民街の人々の平均寿命は、わずか十六歳だった。貧民達は病にかかり飢えに苦しむと、自分の子供を里子として手放す。もしくは上のような手口で他人の子供を売り飛ばしていた。

商店街の店先では、イーストエンドの食肉工場から流通した人肉が並べられる。柔らかく美味しいお尻の肉は『子牛の肉』と表記され高い値がついていた。セントラルロンドンに住む上流夫人達は、何も知らずに人肉を買い、自宅で調理し家族に振る舞っていた。切り分けられた子供の肉は、汚染された環境で育った為、病原菌の固まりでもある。それを口にした人々もまた、疫病にかかり苦しむ。ロンドンの医師達は、当時の疫病を『チフスの蔓延によるもの』と診断を下している。だがその背景には、文字通り『弱肉強食』が行われていたという悲しい現実があった。



人喰男の母親は、近親者との間に子供をもうけてしまった。彼女の恋人はセントキャサリンで働く機械工だったが、我が子の存在を知らないまま病死した。当時は労働基準法がなく、人々は過酷な労働条件のもとで働かされていた。彼も、機械工場で鉄粉を吸いながら何十時間も働くうちに結核を患ってしまったのだ。二人が近親者である事を知ったのは、彼女が妊娠を知った診察室の中だった。付添いの母親が、恋人の名前を聞くなり激怒し、彼女を殴った。死んだ恋人は、貧しさから幼い頃に里子に出されたという彼女の兄だった。彼女は恋人を失い、世間体を気にする家族にも見捨てられた。頼れる者を全て失い、彼女は臨月になるとイーストエンドのスラムで子を産んだ。

産み落とされた子は、頭部が二つ、両手の平に顔のある奇形の男の子だった。四つ子が腹の中で混じり合ってしまった為、結合双生児として生まれたらしい。頭部が逆向きに二つ付いており、接合面は黒い髪に覆われている。左右の手の平には、人面蘇のような顔が一つずつ付いていた。二つの頭部には別の脳が存在しているようで、それぞれ違う動きをしている。母親は驚いたが、近親の血を分けた為、奇形児として産まれたのだと気付く。自分にも恋人にも全く似ていない、異形の我が子に対する申し訳なさで、彼女の瞳に涙が溢れた。普通の子供に接する以上の愛情を持ち、この子を守り育てるのだ。母親になった彼女は目の前の我が子にそう誓うと、腕の中の小さな体を抱きしめた。

イーストエンドで育った彼女は、街の残酷さを良く知っている。子供の頃に仲の良かった男の子がお使いの途中でいなくなった。一緒に作った秘密基地は、彼女だけの秘密になってしまった。男の子の帰りを待ち続けた母親も疫病で死んでしまった。

『手紙を持って、ストラスフォードの方へ歩いていくのを見たよ』

男の子の顔を知る商店街の老人が彼女に言った。ストラスフォードは、食肉工場が多くある街だ。イーストエンドで耳にする残酷な噂を信じるようになったのはその時からだった。商店街で友達だったかもしれない子が食肉として売られ、買われていく。彼女はその度、自分が大人になったら、我が子を食料として扱うような真似は絶対にしないと決めていたのだ。



人喰男の母親は、好奇の目にさらされないようスラムの廃図書館で赤子を育てた。彼女は細い体を酷使し、日雇い仕事を転々としながら懸命に働いた。若く美しい彼女は、娼婦のように通りを流し、道行く者に声をかければ楽に生活が出来たはずだった。彼女は気高い沈黙を守って過ごし、仕事から帰ると赤子にミルクを与え、絵本を読んで聞かせる。夜は眠りにつくまでマザーグース(子守歌)を歌い続けた。

四つ子の体内には胃が四つあり、長さが常人の四倍にもなる腸も一緒に収められていた。彼らは一つの体に四人分の食欲を持ち、常に饑餓に襲われている。母親は特異な性質を持つ我が子に、『運命に打ち勝つ子』という意味の名前を付けた。上の頭をサダルスード、右手をサダルメルク、左手をサダルクビラ。下の頭と体を持つ男の子を、フォルシーニアと名付けた。

四人は母親が読み聞かせてくれる『不思議の国のアリス』の絵本が大好きだった。一番成長の早いフォルシーニアが絵本を読んで欲しいとせがむ。母親はどんなに疲れている日でも、子供達が眠るまでゆっくりと絵本を読んで聞かせた。母親は少ない日当を子供の食料を得る為だけに使っている。厳しい工場で働きづめのうえ、自分はろくに食事も採らない。彼女は日に日に衰弱していったが、子供の前で辛そうな顔をしたり、顔から穏やかな微笑みを消すことはなかった。

「かあさん、きれい」

フォルシーニアが覚え立ての言葉でたどたどしく言った。母親は綺麗な茶色の瞳をしていたが、腕は日に日に細くなり、頬は痩せこけ、顔色は青白く、綺麗な髪は頼りなげに絡んでいた。だが我が子に優しいまなざし向ける彼女は何よりも美しく、時として堂々としてさえ見えたのだろう。彼女は我が子を抱きしめて言った。

「貴方達が元気だと、私の痛みや苦しみは全て消えてしまうの。
 貴方の優しいお父さんのぶんまで、お母さんは貴方達を愛してるわ」


四人が五歳になるとき母親が死んだ。二十四年の短い人生だった。廃材工場で働いていた彼女は恋人と同じ病・結核を患っていた。彼女は四人の傍で大量の血を吐いて倒れた。床に広がっていく血は家畜解体所と同じ臭いがした。

「私が死んだら、ここで本を読み、知識を身につけて、自分の身を守って
 悲しくなったら、兄弟達と笑いなさい。寂しくなったら、兄弟達と歌いなさい。
 食べるものがないのなら、死んだ私の体を食べて生き延びるのよ」


母親は掠れた声を振り絞り、成長の早いフォルシーニアにそう言った。声も尽きると細くて柔らかい指で我が子の頬を撫で、優しく微笑んでから息を引き取った。フォルシーニアは動かない母を見て酷くうろたえた。人喰男は母親の亡骸に向かって呼びかけたが、何日経っても反応はない。人喰男は母親の死肉を食べ、飢えをしのいで生き延びた。母親の長く美しい黒髪にくるまり、夜の寒さにも耐えていた。



人喰男は生きる為に、自力で食料を手にしなければならなかった。イーストエンドでは化物と呼ばれ、住人達から忌み嫌われている。物乞いをしても、一欠片のパンすら恵んでもらえなかった。奇怪すぎる容姿から、大人に捕まり精肉工場に売られる事はない。そのかわり、毎日酷い罵声を浴びせられ、石を投げられ、迫害されていた。住人に対し何もしていない自分が、なぜそういった扱いを受けるのかも理解できなかった。

悲しくなると四人で笑い合ったが、不気味だと罵倒されて石を投げられる。寂しくなると兄弟で歌ったが、化け物と嘲笑されて追い払われる。それが人喰男の中で当たり前の事になっていく。悲しい、寂しい、悔しい、という感情さえも、次第に沸かなくなってしまった。



人喰男の食欲は成長と共に激しくなり、絶え間ない飢えに苛まれていた。空腹を満たす為に、スラムで野垂れ死んだ人間の屍体を食べる日々が続く。転がる死体は、疫病で死んだ者がほとんどだった。空腹は胃を溶かすほど苛烈に人喰男を責め立て、腐敗し、死蝋化した肉でさえ求めてはばからなかった。

死体は大人や老人が多かったが、それらは一切口にしなかった。大人の屍肉は堅く硬直し、歯の生えそろわない人喰男には食べられない。人喰男は小さな犬歯で固い肉を引き千切ろうと苦心する度、『ダイヤモンドのような、強固な歯と顎が欲しい』と思っていた。

スラムの屍体は夏でも放置されている。熱を吸った路上で焼かれ、ものすごい悪臭を放つ。ガスで膨れ上がり、皮膚が破れ、肉は崩れ、人の原型を失う。最期には、湧いた蛆に食い尽くされ、白骨になり、路上で朽ち果ててゆく。ここで飢え、餓死すれば、自分たちも同じような姿で死ぬだろう。人喰男は未来の自分の姿を見ているようで、転がる腐乱死体から目を逸らしていた。一度に四人分の食料を採り続ける事に限界を感じ、何日も何も食べていない兄弟達に向かって、サダルスード言った。

「僕を食べるんだ。僕の脳が停止すれば、君の体内にある胃の一つは停止するかもしれない」

サダルスードは反射神経の鈍い目で、ゆっくりとまばたきをしながら言った。サダルスードが流した涙が、フォルシーニアの頬をぽつりと打つ。フォルシーニアは母が動かなくなった時と同じ気分になった。

「あの本が、きっと君を助けてくれるよ。孤独だけど、愛を知ってる人だから」

フォルシーニアは目を閉じ、ブロック塀にサダルスードを打ち付けて殺した。割れたガラスの破片で、絶命したサダルスードを切り取る。頭部の接合面は髪の毛で覆われており、動物の毛皮を裂く感触に似ている。体の一部を切断する痛みと出血は、凄まじいものだった。だが事を終えた後に、フォルシーニアの身体機能に変化はなかった。重要な器官が、内部に向かって一つも繋がっていなかったのだ。

それはサダルスードを失っても胃の機能は止まらない事の証明だった。サダルスードは、自分が切り離されても問題のない存在だと知っていたんだろうか。知っていたから、三人の食料になると言ったんだろうか。フォルシーニアと、両手サダルメルク、サダルクビラは泣いた。泣きながらサダルスードを食べた。幼い頃、自分の母親を食べたことを思い出す。あの時はそれを悲しむことすらしなかった。身を分けた兄弟を失い、人喰男の頭にサダルスードを切り取った際の大きな傷跡が残った。頭の傷跡を隠すため、人喰男は大事に持ち歩いていた母親の遺髪をかぶっていた。



人喰男は、自分たちが育った閉鎖された図書館で、懐かしい絵本を手に取っていた。

――― ルイス・キャロルの著書、不思議の国のアリス。

白ウサギを追い、樹木の穴を通り抜け、ファンタジーの世界へ落ち込んだ少女の物語。死んだサダルスードは挿絵に登場するアリスの可憐さに一目惚れして、母に童話をせがんでいた。フォルシーニアは絵本をめくりながら、自分の名前を呟く。優しい母は、『運命に打ち勝つ子』であって欲しいという願いを込め、この名を付けた。

母親が付けてくれた立派な名前も、一人欠けたら意味がなくなってしまう。フォルシーニアは、その日から自分の事をアリスと名乗った。死んだサダルスードが好きだった、不思議の国のアリス。残された自分達はアリスとなり、死んだサダルスードを秩序ある世界に連れて行くのだ。母親の与えた名前に戻るのはそれを果たしてからででいい。

アリスは両手のサダルクビラ、サダルメルクにも、新しい名前を付けた。今日から目的の為に、個人ではなく自分の両手として生きてもらう。『食い尽くす両手』として、二人を『ハンドイーター』と呼んだ。

サダルスードは死に際『本がきみを助けてくれる』と言っていた。
アリスは童話の表紙に触れ『サダルスードの願いを聞いて欲しい』と呟いた。
表紙に触れた指先が、感電したようにびくりと動かなくなった。

"黙って出て行くことは出来ないようだ"

脳に直接響くような、内蔵をゆさぶるような声が体の中に響く。
アリスは全身が麻痺したように動かない状態だったが、声は続けた。

〃サダルスードは脳に欠陥があって、知覚してはいけないものが見えた。
 俗にいう霊感というやつだが、私の気配が見えたんだろう〃


〃私はサンジェルマン伯爵、錬金術師の霊体。体は持ったり持たなかったりだ。
 本に同化して情報を体に刻み込んでいた最中だったのだが、君の母上は美しかった。
 私が幼い頃に読んだ絵本の記憶を、より美しい記憶へ変える力があった。
 彼女がこの本を読む度、君たちへの無条件の愛情を、私も受け取っていた〃


アリスの心を読んでいるかのように、声は次々と疑問に答えていく。

〃君の母上の願いだ、君に全知を預けよう。
 全知とは脳の全機能を解放することだ。君の使い方を観察させて貰う〃


アリスの頭の中に冷気が流れ込んだと思うと、意識を無理矢理押し広げられる。奈落の深淵をのぞき込んだような、底冷えする感覚の中でアリスは失神した。目が覚めたのは、廃図書館の外が暗闇に染まる頃だった。隣に投げ出された『アリスの不思議な国』は窓からの風で、頁が音を立てて捲れていた。

目を開けると、以前は意識もしていなかった、視界に写る物の名前と情報が理解できる。口にする空気の元素記号、それを取り込む自分の身体機能の情報も、呼吸と同じく意識に入ってくるのだ。アリスは恐ろしくなって辺りを見回し、目の前に知覚できない存在があることに気付く。ブルボン王朝の貴族のような服を着た青年が腕を組んで窓際に立っていた。

美男子とはこういう人を指すのだろうと実感できる容姿で、腰まで届く銀色の髪を持っていた。白い生地に金の刺繍が施された礼服は上等な仕立てで、金の鎖のついたモノクルを鼻筋にひっかけ、神経質そうな細い眉と、白蝋のような細面をこちらへ向けている。アリスと目が合うと、小さな子供が見せるような、混じりけのない親しみの表情を浮かべた。

「どう使うかは君に任せるよ。僕はその様子を観察させて貰う。
 僕は人の集合無意識から表の思考が読めるが、個人の居場所はわからないんだ。
 だが、思念の塊の夢・思念の宿る場所や物へは、霊体である私は一瞬で飛べる。
 だから、君の思念が宿り、君の居場所の目印となるこの本を手放さないこと、いいね」


口調とは裏腹に重厚な雰囲気を持つ青年は、落ちた絵本を拾って埃を払うと、アリスに手渡した。アリスは戸惑ったが、掠れる声でありがとうと言った。サンジェルマンは口元だけで薄く微笑んで、続けた。

「僕は錬金術師。賢者の石を目覚めさせる事の出来る賢人が欲しい。
 賢者の石、不老不死って思いうかべてごらん、情報が出てくるから。
 実はあれは、石ではなく人間の細胞の事でね。

 賢者の石とは、無限に細胞分裂し続ける細胞・テロメアーゼを制御する細胞だ。
 人間は一生かかっても、脳の10%しか使えない。
 だが脳をフルに使った時に、脳の一部であるテロメアーゼ制御細胞が目覚める。

 アジアには、テロメアーゼの一部を使った不死の肉の固まり『太歳』がある。
 あれが石にそっくりだから、これを見た者が不老不死の石だと早合点したんだろう。
 それから不老不死のアイテムは、賢者の石という物質として認知されるようになった。

 だが不老不死とは、我々の脳の中にあるんだ」


アリスは、なぜサンジェルマンが自分に関わろうと思ったのか不思議に思った。

「君は四つ子の融合奇形児で、一つの体に脳が四つある。
 別の脳を持つサダルスードは死んでしまったから、今使ってる脳は三つだね。
 君の全300%の中で、僕の全知の100%を君に与えたから、
 君は残りの200%を、君の人生の中で目覚めさせて欲しい。おそらく私とは違う結果になるはずだ」


アリスが、サンジェルマンはどういう結果になっただろうと思った瞬間に、彼が答えた。

「完全じゃなかった。脳というのは劣化が免れない臓器。
 体が不死でも、司令塔の脳が劣化していけば脳死は免れない。
 脳はいかなる薬も受け付けないんだ。例外として、アルコールを受け付ける性質を持っている。
 だから僕はこうして自分の細胞を切り取り、アルコールに溶かして飲んでいる。
 そうすることで脳の老化を止めているんだ。
 液状の賢者の石をエリクサーと呼ぶが、これのことなのさ。
 アルコールと掛け合わせると、脳にテロメアーゼ制御細胞を送ることが出来るからね」


サンジェルマンは『リカール酒』というラベルの貼られた小瓶を取り出し、飲んで見せた。

「僕と違い、君の脳は巨大だから劣化も遅い。
 君が巨大な脳のチャンネルを全て開いた時、脳が劣化しない為の何かが目覚めるかもしれない。
 だから君の好きなように生活してくれ、僕はそれを見てるから」


サンジェルマンは研究対象を見る目つきで一礼したが、不思議と嫌な感じはしなかった。
目を輝かせ、知的好奇心を一気呵成にしゃべり立てるサンジェルマンが子供のように見えたからだろう。不老不死の研究が、彼にとってのオモチャなのだろうとアリスは思った。

「オモチャとは失礼な、僕は心を読めるから思考には用心したまえ。
 不老不死の僕は、長い人生で普通の研究をやり尽くしてしまった。
 出来るのは自分自身の研究と、世界の秩序を管理する事だけなんだよ。
 僕は基本的に霊体で、全知の脳には霊が見える。本来見えてはいけないもの。
 世の中の秩序が乱れ、理不尽に人が死ねば、人間の魂は浄化できない地縛霊になる。
 地縛霊が増えれば、生者の場所でありながら地上は地獄と化し、
 地縛霊の怨念が生者に災いをもたらすようになる。
 僕は躁魂術で、自身を霊体と物質に切り替えたり、魂の集合体無意識にアクセスできる。
 危険な思考の持ち主の無意識を操作して操り、思考と行動を変えてしまうのだ。
 僕たちからすると、運命を操られているようなものだがね」


ずっと僕の側にいるのかい、アリスがそう聞くととサンジェルマンがうなづく。

「よくわからないけど、友達ってことだね」

アリスが握手を求めると、サンジェルマンが躊躇いがちに言った。

「人の心が読めると、信頼関係など築きようがない。
 だが立場や能力を度外視した感情を、君が僕に向けてくれたことは純粋に嬉しいよ。
 常に側にいるといっても君の行動には干渉しないから、安心してくれていい」


「死んだサダルスードは、サンジェルマンの事を孤独だけど愛は知ってる人だと言っていたよ
 こうして僕たちを助けてくれる人だとわかってたんだと思う」


「それは違う。君に関わったのは僕自身の為だ。
 君の母親や兄弟は君を愛していた。君がどういう人間でも、結果自分が死ぬ事になっても変わらない愛。
 それは僕にないものだから性質かわかるってだけだけさ」


サンジェルマンは素っ気なく言うと本の中へ入り、アリスの両手に収まった。
数年前まで教養のない浮浪児だったアリス。それが今や図書館一つ分の情報をまるまる頭に詰め込んだ、歩く書庫と化していた。物事を判別できるようになり、世界が広がると、意識を行動に活用したいと思った。

アリスは廃図書館で、これからどうすべきか、生きる上で最も重要な『行動』について考える。アリスは人間の死体を食べるうちに、人肉以外のものを口に出来なくなってしまった。体が食物を拒否し、口に入れた途端に吐いてしまう。そんな性質を持つ者が、人と共に生活する事は出来ないだろう。ならばこの性質を生かした事をすればいい。錬金術で世界の秩序を管理するサンジェルマンのように、自分にできる事はなにか。そう考えながらアリスは今後の計画を打ち立てた。



chapter2

イーストエンドのすぐそばに、シティと呼ばれる金融街がある。そこで銀行強盗事件が起き、ここ数日巷を騒がせていた。アリスの食欲は、成長と共に激しくなっていき、墓暴きをして死肉をあさり、空腹を満たす日々が続いていた。アリスが霊園で食料調達をしていた夜のことだった。墓石の中から、ギッチリと紙幣の詰まったボストンバックが、幾つも姿を現した。アリスはその場違いな大金を、強盗犯が隠していったものだろうと考えた。

アリスは何かを思いついたように、キョロキョロと辺りをうかがう。辺りに誰もいないのを確認すると、現金の入ったバックを森の茂みに投げ入れた。アリスは大急ぎで廃図書館に戻り、読み終えた本のページを次々切り抜いた。褪せた色合いが紙幣に似ているものを選び、切り抜きの束を幾つも作る。三十分もするころには、紙幣と同じ大きさの紙の束が机に積み上げられた。アリスはそれを一束ずつくくり、膨大な量の偽札にする。

その両手いっぱいの偽札を抱えながら、大急ぎで霊園に戻った。途中、スラムに転がっていた黒猫の屍体をつまみ上げ、そのまま走る。

アリスは霊園の茂みに頭を突っ込むと、ボストンバックを取り出した。紙幣の束を抜き取り、空になったバックの底に黒猫の死体を寝かせる。アリスは、ポケットからペンを取り出し、偽札の一枚に熱心に何かを書いていた。黒猫の片手に紙切れをくくりつける。黒猫の屍体を覆うように偽札の束を詰めると、ボストンバックを元の隠し場所に戻す。アリスは抜き取った大金をまるごと失敬すると、子供らしからぬ含み笑いを浮かべた。



アリスは、スラムで拾ったぼろぼろのコートとシルクハットを目深に被り、コートのポケットに札束をねじ込むと、シティの宝石店へ向かった。

「頑丈な宝石を、三十個下さい」

店主は、カウンターに突っ伏したまま酒をあおっていた。

「俺の股に付いてるぜ。頑丈なのがふたつな」

アリスは店主の股をまじまじと見ながら、紙幣の束を取り出した。その瞬間、店主は飲んでいたブランデーを放射線状に噴き出した。紙くずのように現金を扱うアリスに肝を冷やしながら、店主は頑丈な宝石を売った。

アリスは廃図書館に戻ると、長机の上に三十個のダイヤモンドを広げた。ダイヤモンド収集が趣味というサンジェルマンが、珍しく本から出てきて目を輝かせていた。髑髏水晶のような綺麗な歯形に加工したいと話すと、サンジェルマンがやってくれた。妙なにおいのする薬品に浸しながら、半透明のやすりでこすると綺麗にダイヤが削れていく。サンジェルマンが錬金術で作った、ダイヤを布状にしたヤスリらしい。錬金術は便利だねというと、彼が得意げな顔をしたので、盗金で買ったリカール酒をあげた。

アリスは遊び場にしている霊園の墓石に、サンジェルマンが加工したダイヤの歯をしまう。 辺りが薄闇に包まれるのを確認すると、アリスはイーストエンドの娼婦街へ向かった。



娼婦街といっても、いる女は中年ばかりだ。若い娼婦はロンドンの西端に位置する街、ウエストエンドで春を売る。若さも失い落ちぶれた娼婦は、イーストエンドで昼間っから大量のジンを飲む。ジンは税金がかからない上に誰でも自由に販売することができたからだ。

”1ぺ二ー飲めば酔っ払い、2ペニーで天国に”

そう記されたジンの瓶が、イーストエンドの酒飲み達の手に握られている。娼婦は葡萄酒二杯分の値で体を売り、酒と、工場のリンで禿かけた男に溺れていく。そんな娼婦達が多くいる、イーストエンドのホワイトチャペル通り。名前の美しい響きとは裏腹に、犯罪の温床のような区域だった。

下卑た笑いを浮かべた孤児の群れが、こん棒など振りかざして追いかけてくる。うっかり裏路地にでも入りこもうものなら、身ぐるみ剥ぎ取られても文句は言えない。ここではどんなものにでも値が付き、バケツ一杯分の犬の糞でさえ、皮なめし職人が10シリングで買い取っていた。下水道に降りると、落ちているコインを拾うこともできる。満潮時には、逆流する川の水で溺死した者が、何名か浮いていた。

地上では市場に行く家畜の群れが、スミスフィールドへ向かって暴走している。通行人を跳ね飛ばし、家々をぶち壊す。昼間から騒々しく、目を覆いたくなるような暴力沙汰が繰り広げられる。その光景に慣れてしまった住人達は止める事もせず、乾いた視線を向けていた。

その肝の据わった人々でも逃げ出したくなるものが、一つだけあった。『切り裂きジャック』がその名の通り、イーストエンドの娼婦達を次々切り裂いていたからだ。その遠慮のなさときたら大したもので、腸がひと塊、娼婦の肩にぶちまけられていたらしい。この時期、夜更けの通りに立つ者といえば、馬鹿か自殺志願者と相場が決まっている。武器を持ち通行人に絡む孤児、犬の糞を集める老人、下水のコインを拾う酔っぱらい。市場へ向かう家畜たちでさえ、日が暮れると早足でイーストエンドから姿を消した。

日が落ちかけた無人の参道を、アリスは我が物顔で歩いた。大きめのシルクハットと、長いコートを羽織り、裾を引きずって歩く姿は独特だった。地面から黒くて短い煙突が顔を出し、器用に動いているようにも見える。街灯に照らされて、自分の足下から伸びる巨大な影。それが気に入ったアリスは、生えてもいない髭をねじる真似をした。長い影の先頭で、見えない髭をいじりながら、紳士のように軽快に歩く。やがて思案顔になり、黒くてつやのあるステッキが欲しいと思った。

カビ臭いレンガに囲まれた裏路地に、上品な革靴の音が響く。音と一緒に薄闇の向こうから、埃臭い通りに不似合いな紳士が現れた。紳士は黒々とした立派な男爵髭を生やし、立派なステッキを持っていた。先ほどアリスが真似をしていたように、髭をねじりながら、軽快な足取りで歩いて来る。

「やあドクター・クリーム。いい夜だね。今夜はいつジャックになるんだい」

アリスはシルクハットの端を片手で持ち上げ、目の前の紳士に言った。

「やあアリス君。今夜はあばずれの耳を食べないでくれよ。
 新聞社の編集長殿に『耳を贈る』と書いてとんだ恥をかいた。
 そして私がジャックになるのは、今夜が最後さ」


ドクター・クリームは口元だけで笑うと、アリスと手を繋いだ。二人は談笑しながら、近くのモーテルへ入って行く。端から見ると、英国紳士のふるまいを真似する子供と、その父親といった様子で、手を繋いで歩く二人の姿は、仲の良い親子のそれだ。だがこの二人こそが、この時期ロンドンを震え上がらせたジャック・ザ・リッパー。未だ未解決の切り裂きジャック事件の犯人達なのだ。



二人の出会いは、ドクターが二人目の娼婦、アニー=チャップマンを殺害した時だった。ホワイトチャペル付近の路地裏での出来事である。アニーの腹部をメスで切り裂き、腸を引きずり出すドクター・クリーム。アリスは偶然、その現場を目撃していた。

アリスはこのところ、体調が芳しくなかった。体中に不気味な斑点が浮き、高熱で思考もままならならない。そんな体を押して霊園に向かう途中、生臭い場面を目にしてしまったのだ。アリスは、横たわる惨屍体と、笑顔で女の腸を手にするドクターを交互に眺める。ドクターは下半身が裸で、血塗れの腸を局部に巻き付けて喜んでいた。それは、楽しい事なの?』小首をかしげながら、アリスはドクターに声をかけた。

ドクターはアリスを一瞥し、片手に握られて垂れ下がったアニーの腸をまじまじと眺める。ドクターは、生暖かいものを握ったまま答えた。

「脱腸した女は楽しくないねえ。
 ただ、女の子宮を一個二十ポンドで買い取ってくれる所があるのだ。
 しかし、この女は子宮ガンだった。私の苦労は水の泡だよ。

 腹が立ってこうして今、売女の腸を引きずり出しているところさ。
 笑っているのはこんな自慰をするのは自分だけだと気付いたからさ。
 坊やこそ、こんな真夜中に、一人で何をしているのかな」


ドクターは顔色を変えずに、淡々と喋った。

「食べ物を捜してる」

アリスは足下に転がる、潰れた子宮を手に取り、口に入れた。しかし、すぐに顔をしかめてそれを吐き出す。

「不味いだろうね。そいつは末期ガンだ。戻しておきなさい。

 ン。その皮膚の斑点は、チフスじゃあないのかね。
 なァに、ただのストレプトマイシンさ。少しチクッとするだけだ。
 痕をこするんじゃあないよ。

 イーストエンドも恐ろしくなったもんだ。
 子供に与えるような医療品も、ロクに出回らないとは」


ドクターにコートの首元を捲られ、変色した皮膚をじろじろと見られた。かと思うと腕に注射器をブスリと刺され、アリスは驚き、悲鳴を上げる。痛みで顔をしかめるアリスを後目に、ドクターは黙々と自分の事をしていた。血塗れになったメスや、使用済みの注射器を、医療器具の入ったカバンに戻している。アリスは先ほどドクターに言われたとおり、潰れた子宮を屍体の元の位置に戻していた。

「これからどうするの?」

アルコールの染みたガーゼで、返り血を丹念に拭き取っているドクターに尋ねた。

「どうしようかねえ。金が要るんだが、困ったね。
 目の前に不思議な患者が一名いるんだが、どうしたものかね」


困っているにしては緊張感のない口調で、ドクターはアリスを眺めながら言った。アリスは、このドクターの顔を知っていた。この男はドクター・クリーム。ロンドンの無免許医師であり、毒殺魔だ。裏通りに張られた、擦り切れかけの手配書の紳士と同じ顔をしている。アリスは随分前に、この人物が逮捕されたいう記事をタイムス誌を読んでいた。記事が捏造でないのなら、現在シカゴの監獄で服役中のはず。ドクターは、ここイーストエンドにいるはずのない男だった。

「脱獄でもしてきたの、ドクター・クリーム。困ってるなら、僕のうちへくるかい?」

ドクターは一瞬だけ体を強ばらせたが、変わらぬ口調でさらりと答えた。

「よくわからんが、私はロンドンでそんなに有名人だったのかな?
 きみに正義感が微塵もないのなら、是非きみのうちで話を伺いたいね。

 大丈夫、私にはアリバイがあるんだ。
 私と同じ顔をした看守がシカゴの檻の中にいる。
 私に関わっても、君に迷惑を掛けることはないから安心したまえ」


そこでようやくドクターはズボンを履く。アリスは友達を家に招くような気軽さで、目の前の脱獄囚を霊園に連れていった。



ドクターは、不気味な霊園に着くなり辺りを見回す。『実に趣がある』と褒めちぎり、この隠れ家をいたく気に入り、続けて、こう言った。

「先日、街のゴロツキ一家がシティ銀行を襲った事件を知っているかね。
 その現金の半分が、どこぞの霊園に隠してあると聞いたのだが
 連中は先に、金半分と一緒に捕まったらしい。

 残りの半金が、今もどこかに隠してあるはずなんだが、
 セントラルロンドン、ウエストエンドの霊園にはなかった。

 ここの霊園には『MR.クロウリー』の名が記された墓石はあるかな、坊や。
 警察に見つかる前に、私が見つけてしまいたいのだがね」


それを聞くなり、アリスの心臓がびくりと跳ねた。自分が現金を失敬したことは伏せ、アリスはバックを隠した墓石へ案内した。

「ここで間違いなさそうだ。ありがとう坊や」

そう言ってしゃがみ込むと、ドクターは重い墓石をずらした。ドクターがボストンバックを手にしている間、アリスは終始落ち着きがなかった。隠した現金を自分が失敬したと知られたら、どうなってしまうのか。この容赦のないドクターに、内臓を抜き取られ、標本にされてしまうのではないか。アリスは、ドクターの背中越しに、偽札の束の詰まったバックを見ていた。

「……」

ドクターは、無言で偽札の束をまじまじと見つめている。バックの底に置かれた黒猫の屍体を抱き上げた。前足に巻き付いたメモをほどき、ドクターはそれを読んでいる。

『これで、天国でたらふくキャットフードが買えるニャン』

見覚えのある下手な字だった。なにせアリスが書いたものなのだから、当たり前だ。その時のアリスには、早鐘を打つ自分の心音しか聞こえていなかった。ドクターはそれを読み上げるなりため息をつき、アリスの方へ顔を向ける。自慢の男爵髭をねじり、アリスの顔をまじまじと眺めていた。

「天国へ持って行かれては仕方がないな。
 ひどい悪戯好きだが、ジョークのセンスはなかなかじゃあないか」


ドクターは笑っていた。アリスはその場で硬直し、瞬きも忘れていたが、ドクターに霊園の案内を促された。不気味な霊園を歩きながら、ドクターはアリスに話をする。 話によるとドクターは、この先の逃亡資金をどうにかしたいらしい。イーストエンドに出戻って早々、ドクターはゴロツキ一家に絡まれ袋叩きににされた。連中は全員、疫病を患っていたそうだ。暴行にも力がなく、ドクターも大した怪我はしなかったらしい。医療道具を奪わないでもらう条件として、ドクターは連中の疫病を治すと約束した。その後、ドクターは診療所でゴロツキ一家を静養させてやったそうだ。『一週間後、霊園のWR.クロウリーの墓石を掘り起こせ』一言だけ言うと、ゴロツキ達はドクターの元を去っていったそうだ。その翌日、シティ銀行に押し入ったらしい。

「その半金、私が見つけてやらないと、
 奴らの酷い恩返しが無駄になるような気がしてね。

 しかし、あれから一週間以上も経っているのだから、
 他の人間が先に見つけていても、なんら不思議はない。
 やはり自分の問題は、自分でどうにかしなければな」


医者としてのプライドがそうさせるのか、ドクターは犯罪にも妙なこだわりを持っていた。『結果として、医学に役立つものでなければならない』。どんな残酷な犯行に及ぼうとも、それがドクターの信条らしかった。今、シカゴ医大が高額で買い求めているという子宮標本を大量に手に入れる。子宮ガンの治療法を発見し、大金を得る代わりに医学にも貢献する。そんな大義名分で、今回の娼婦切り裂き魔事件を起こしたんだという。



ここ最近アリスが訴えていた体調不良。『人食による伝染病か、チフスによるもので、今後も様子を見て治療が必要だ』ドクターはそう言って、自分の地下診療所にアリスを連れて行った。むき出しのコンクリートに囲まれた、カビ臭い診療所。不衛生な一室も、ドクターが収まると立派な診察室に見えるから不思議だった。ドクターはアリスのレントゲンを撮ると、彼を目の前の椅子に座らせた。機嫌良さそうに、ドクターは棚からティーセットを取り出しお湯で暖めている。

「英国人は、空気と同じくらい紅茶を飲むものなのだよ
 大分ここを留守にしていたので、古い茶葉しかないのが申し訳ないがね
 どうしようもない時ほど、英国人には紅茶が必要だ
 いかなる時も余裕がないと、男は紳士的な振る舞いなど出来ないからね」


ドクターはそういうと、アリスに暖かい紅茶を差し出す。アリスはティーカップに恐る恐る触り、紅茶を一口飲んだ。アリスはそれを口にした途端、目を見開いた。『美味しい』という感覚すら忘れていたアリスには、不思議な味だった。普段飲んでいる、腐敗臭のする水や、血液の鉄臭さなど微塵もない。甘くて少しだけほろ苦い、ミルクの柔らかな味がした。

「両親がゴールデンルールで煎れたロイヤルミルクティーを幼いうちから飲めるのが、
 英国の子供の特権なのだよ。わたしは子供の頃、これが大好きだった。
 大人になってからも、子供の頃の方がおいしく飲めたと思ってしまう。
 それは、紅茶を煎れてくれた両親の愛情があったからそう感じるんだろうね」


ドクターがそう言うと、アリスは紅茶の温かさと一緒に胸が熱くなった。 産まれる前に死んだと母親に聞かされた、父親の事を思い出す。 父親がいたら、ドクターのような事を言って、自分に紅茶を煎れてくれたんだろうか。母は、思いやりや優しさを自分に教えてくれた。 父は、振る舞いや志を教えてくれるもの。 アリスが本で読んだ「父親」に、ドクターはぴったり当てはまる人物だった。 ドクターは紅茶を飲みながら、先ほど撮ったレントゲンを指さした。それをアリスにも見せながら解説する。

「この世で一番怖いのは『知らない』ことさ。
 君の体は、少しばかり普通とは違うようなんだ。
 だから君は生きていくため、それにより起きる問題の対処法を知るために、
 まず、自分自身を知らなくてはいけない。

 このレントゲンを見てごらん、君の脳は、面白いほど大きい。
 両手のハンドイーターに脳が存在しない代わり、
 アリス君の方に、三人分の脳が混ざり合ってしまったらしい。

 君の図書館の蔵書全てを暗記する、
 ビブリオマニア(読書狂)とも呼べる恐るべき記憶力や、
 頭の回転の速さは、この三人分の脳の働きによるものだ。

 そして体内には、君たち兄弟の胃が四つ。
 この巨大な脳の活動を維持するために、四つの胃を満たし、
 高タンパク質である人肉を食べ続けてきたのも、偶然ではないかもしれない。

 それを仮に、君の本能と言うのなら、君は人間よりも優れた
 食物連鎖の頂点に立つ、新人類なのかもしれないね」


レントゲンを診ながら、ドクターは興味深そうに言う。紅茶で体が温まり眠くなったのか、アリスは椅子に座りながら微睡んでいる。その間にドクターは、アリスがレントゲンを撮る際に脱いだボロボロの服を処分した。垢で汚れたアリスの全身を、熱いタオルで丹念に拭く。体が綺麗になると、寝息を立てるアリスに紳士服を着せた。アリスが被っていた頭髪を、不衛生だと感じ、処分しようと頭に触れた時だ。アリスが急に目を覚まし、寝起きとは思えない力でドクターの手を掴んだ。

「これは不衛生だ、ネズミの住処にでもされて、またチフスに罹ったらいけない」

その反応に驚いたドクターが、アリスに言った。

アリスは死んだ母親の話をし、処分をやめてほしいと必死に訴える。ドクターは神妙な顔になり、遺髪を洗い、人工頭髪を混ぜた鬘に仕立てた。それを、黙ってアリスの頭に被せてやる。

「君は素晴らしい母上に恵まれたな。

 過去に死んだという、君の双頭兄弟のことだが、
 偶然だが、結果的に適切な処置だったと私は思うのだよ。

 放っておけば死期が近づくのはもちろんだが、
 一つの人体の司令塔は、一つの方がいいんだ。

 刷り込みの善悪の判断すらない、
 純粋すぎる君には分からない事かも知れないが、人間の感情は恐ろしい。

 一つの脳に一つの体を持った人間同士でも、
 お互いの感情で憎み合ったり、殺し合ったりするものなのだ。

 君と同じ境遇で産まれた、切り離すことが出来ない結合双生児が
 性格の不一致で仲違いし、一つの体を取り合って争い、
 憎悪で相手を殺してしまうというケースは、少なくない。

 相手を思いやった末、苦渋の決断をし、君達全員がその優しい気持ちのまま、
 お互いの生を望み、死を悲しみ、生き別れたのは幸運な事だ」


ドクターにそう言われても、アリスはサダルスードの死を幸運な事だと思えなかった。< だが、この風変わりなドクターは、大好きだった母を褒めてくれた。<異形の自分と初対面で「坊や」と呼び、人として真っ当に接してくれた。迫害されてきた自分に、美味しい紅茶を煎れて、立派な人間の服を与えてくれた。アリスにとって、ドクターの振るまいは、現実を疑ってしまうほど、嬉しいものだった。

「僕も資金集めに協力しようか」

アリスはドクターに向かって、目を輝かせながら言った。親切心のつもりだった。ドクターが受け取るはずだった現金を失敬した事に対する罪悪感も多少あった。ドクターはアリスの言葉を聞くなり笑い出した。殺人現場を目撃した子供が共犯者になるなどと、思ってもいなかったようだ。

「君は、先ほど、母上に頂いた名が相応しくないと私に話したが、
 私は全く、そうは思わないのだよ、アリス君。
 君は、すでに何度か訪れた、死の運命に打ち勝っている。

 それに、こういう話を知っているかね。

 『不思議の国のアリス』の著者、ルイス=キャロルは、
 病気の女の子から貰った手紙に返事を出した際、手紙で彼女の事をこう呼んだ。

 『フォルシーニア(運命に打ち勝つ子)』とね。

 君の母上は、おそらくそう言う意味で、君の好きだった絵本に関係深く、
 この素晴らしい意味を持つ名を、君に付けたのだ。

 そしてサダルスード・サダルメルク・サダルクビラは、幸運を補助する星の名前だ。

 そして君は、死んだ兄弟のために、自らが不思議の国のアリスになり、
 イーストエンドのような残酷な風景のない世界に兄弟を連れて行きたいという。

 素晴らしいじゃないか。

 だから君は、これから自分の生態にどんな疑問を感じようが、
 母上に頂いた名を誇りに、恥じることなく理想を胸に、生きればいいのだ。

 そして今、君が享受している最も大きな幸運は、
 私という、人の基準で物を考えないヤブ医者に出会えたことさ。

 君は私の知的好奇心を刺激する、非常に魅力的な存在だ。
 君の『自慢できないお友達』として、これからもよろしく頼むよ
 この残酷な街イーストエンドで、共に歌い、笑おうではないか」


二人はお互いに握手し、共犯者になった。共犯期間は、ドクターは責任持ってアリスを治療する。アリスはドクターの邪魔をする者は全て食べ尽くすと約束した。

「ドクター、僕にはお友達がもう一人いるんだ。何世紀も生きてる錬金術師だよ」

アリスはサンジェルマンいる廃図書館へドクターを案内した。



「驚いた、何世紀も生きていると聞いたから
 どんなご隠居と思いきや、男装の麗人じゃないか
 こんな美しい人間は見たことがない」


ドクターは帽子を取って一礼すると、廃図書館で実験をするサンジェルマンを見て感嘆の声をあげた。

「僕は男だよ、ドクター・クリーム」

サンジェルマンは廃図書館のテーブルに広げた実験道具に視線を向けたまま応える。名乗ってもいないドクターの名を呼びかけるあたり、アリスから話を聞いていたのだろう。ドクターとサンジェルマンがアリスのお友達としての簡単な自己紹介を済ませると、アリスは眠くなったといって霊園のねぐらへ帰って行った。ドクターはサンジェルマンに興味を持ったのか、地下診療所に帰らず、サンジェルマンと会話していた。

「私は見ての通り悪人だが、アリス君に注意しなくて良いのかね?
 君は犯罪とは無縁な人物にみえるが……」


ドクターはサンジェルマンが実験を続ける様子を見ながら尋ねた。ホムンクスルス(人造人間)の生成をしているらしく、人体の雛形を培養している途中だった。実験道具から蒼色の光が広がり、蒼い粒子が窓の外に漏れている。

「僕は人間に干渉しないようにしているんだ。あとが面倒なんでね」

テーブルに並ぶクリスタル製のフラスコやビーカーの中に、手のひら程度の大きさの人形が入っている。人体模型のように骨や内臓、筋繊維が剥き出しで、グロテスクだった。サンジェルマンが白銀の粉をまぶすと、白い皮膚が人形の全身を覆った。次に金色の粉をまぶすと、一瞬で頭部から艶やかな金髪が腰まで伸びた。サンジェルマンが人形の身体を指先で撫でると、体型が変化していく。身体の様子から見ると女性のようだ。ドクターは実験の様子に見入っている。

「アリス君には干渉したんだろう?
 君は何世紀も生きている素晴らしい錬金術師ときいたが、
 なぜその力を医学や社会に貢献させないのだね?」


ドクターが持つサンジェルマンへの関心は、なぜ能力を医学に使わないのか、という一点に尽きるようだった。サンジェルマンは人形の顔に触れ、指先で顔立ちを生成しながらそっけなく応える。

「意味がないからですよ」

サンジェルマンは人形の顔をつまんで鼻を作っていた。ホムンクルスの雛形は、見る間に美しい顔立ちに仕上がっていく。

「スキルを与えても、向上心がなければ私にすがり続けるでしょう。
 私に頼って何もしなくなり、自滅する人間を何人も見てきた。
 医学に関していえば、万能薬を神聖化すればするほど、
 命に敬意を払わなくなる。どうせ生き返るからとね」


サンジェルマンは投げやりに応えると、手元の人形を仕上げていった。サンジェルマンが少女の姿をした人形の全身に舌を這わせた。マネキンのように固い身体が、舌の触れた部分から自律的な動きを見せる。唾液で濡れた人形は自力で動き出す。サンジェルマンが人形の唇に息を吹き込むと、人形の身体がビクンと跳ねた。その口から、言葉が漏れ、しばらく不規則な単語を発していた。

「人生に限りがあり、生をおびやかすからこそ命に価値がある。
 貴方が医者になったにも不完全な人間のためでしょう。
 万能薬があれば、あなたの不完全な人間の為に生きたいという理想は消滅し、
 人間は命を命と思わないクズのような存在になってしまう」


言葉を発し続ける人形が瞳を開けた。宝石のような蒼い瞳で、長い睫からは音がしそうだった。その様子を眺めるドクターと目があうと、人形は全裸のまま、青白い光を放つビーカーの中に引っ込んでしまった。サンジェルマンはそれを見て微笑んでいる。

「アリス君に接触したのは愛情からかな?
 それとも人形遊びのように、実験という視点で微笑ましいということか?」


サンジェルマンは人形の入ったビーカーの中に、コールタールに似た黒い粘液を垂らした。それが人形の身体にまとわりついて、黒いゴシックドレスに変化していく。人形は可愛らしい服を纏うと、安心したようにビーカーの中に座り込んだ。セント・メアリ・ル・ボゥ教会から時間を告げる鐘音が響く。イーストエンドの住人なら誰でも聴いた事のあるものだ。イギリスではセントメアリの鐘が聴こえる場所で生まれた者だけが、生粋のロンドン市民とされる。イーストエンドに響くセントメアリの鐘。サンジェルマンは「MEARY(メアリ)」という走り書きをしたラベルをビーカーに貼り、そこで初めてドクターほうへ振り向き、視線を合わせた。

「アリス君の生態に興味がある。あのような特殊な奇形を探していた。
 貴方は彼の性質をビブリオマニア(読書狂)とたとえたが、それは違う。私が与えたものだ。
 私の知力を与えたことで、彼が見たこともない存在になりそうな予感がするんですよ」


サンジェルマンはメアリの入ったビーカーを残して、実験器具を一瞬で片付けてしまった。彼は懐からリカール酒というラベルの貼られた酒瓶を取り出すと、メアリに入ったビーカーになみなみと注いだ。人形は青白い光を発して徐々に大きくなり、12前後の少女になった。神の手がけた彫刻品のような美少女で、ドクターは言葉を失う。少女の雰囲気はどことなく、鏡の国のアリスに似ている。

「見たこともない存在とは、ソニービーン一族や、食人サイコキラーか……そういう類のものかね?」

完成したホムンクルス(人造人間)を間近に見て、ドクターはサンジェルマンの能力に恐ろしいものを感じた。メアリの瞳は人を捉えて射貫くような、サンジェルマンにそっくりな光を放っている。この少女は恐るべき学習能力で、ドクターとサンジェルマンの会話を理解している。メアリは何も言わずじっと二人が会話する様子を見つめていた。

「食人鬼に人間を凌ぐ叡智が宿れば、どういった存在になるかわかりますか?
 アリス君は人間に代わって、食物連鎖の頂点に立つ新人類になります。
 新人類の前では、従来の人間が持つヒューマニズムなどは一切通用しない。
 『人間だから・人間だもの』で己を誤魔化し命を喰らう人間が、今度は喰われる立場になる。
 『食物連鎖の頂点にいる』という傲りは、新たな頂点のアリス君には通用しない。
 アリス君は人類という食料に対して、いかなる秩序を作るのか?
 彼の叡智は人を導くのか裁くのか、それとも生物の本能に従い獲物を喰らうのみなのか」


サンジェルマンが早口でまくしたてる。隣に立つメアリが驚いて目を丸くしていた。

「新人類である彼の脳で作られる賢者の石の細胞とは、どんなものか?
 このホムンクルス・メアリは、アリス君への贈り物なのだが、
 究極錬金のひとつ『黄金を産み出す不死のホムンクルス』を生成しても、
 しょせん人の模造品に過ぎない。人間と同じ未知の部分を持つ脳細胞にならないのだ。
 初めから僕に性能が決められてて成長がない。その意味では失敗作だ。
 だが今までのホムンクルスとは違い、黄金形成能力を搭載し、この通り容姿は美しい。
 性処理の暇つぶし人形としては使えるでしょうがね」


サンジェルマンの言葉に含まれる『失敗作』『不死』『贈り物』『性処理』という言葉を聞いた途端、メアリは戸惑いの表情を見せ、宝石のような蒼い瞳から黄金の涙を流した。涙が頬から落ち、キン、という音を立て床に金の粒が転がる。本物の純金だった。全てを理解する知能をもって作られ、作り主が自分に向けた第一声が失敗作なのだから戸惑うだろう。ドクターはメアリの頭を撫でてやりたいと思った。

「純然たる学術好奇心というやつかね。その少女のように、アリス君も君のモルモットか?」

ドクターはメアリにハンカチを差し出すと、憮然としてサンジェルマンに尋ねた。メアリは受け取るか否か迷うそぶりを見せたが、睫についた黄金の雫をドクターのハンカチでぬぐうと、丁寧にお礼を言ってドクターに返した。その間サンジェルマンは無反応で、ドクターはサンジェルマンがどういう人間性か察し始め、それどころか人間かもあやしいと思い始めたようだった。

「人類は等しく私のモルモットです。
 実験体に愛情などありません。愛とは欠点を愛する事でしょう?
 実験という性質上、私は失敗作を愛すわけにはいかない。メアリやアリス君は観察の対象だ。
 そうでなければ錬金術師に完璧な研究などできない」


サンジェルマンは当然といった風に応えた。罪悪感などないようだ。

「君の価値観は錬金術の一点につきるわけか。不愉快な存在だな、君は」

ドクターは窓辺にもたれていたが、帰るつもりできびすを返した。

「不愉快?どこがですか?
 僕の今の心境は、いうなれば叡智と暴虐の誕生を見守るホメーロスだ。
 彼が英雄なのか悪魔なのか、今の段階ではなんともいえませんがね」


ドクターはサンジェルマンの偏執狂じみた言葉を背に部屋を出る所だった。こちらに頭を下げたメアリに会釈し、サンジェルマンには呆れたように応える。

「君は冷酷な錬金術師だよ。クズ医者の私がいうんだから間違いない」

ドクターは廃図書館を出ると、霊園のねぐらで眠っているアリスをたたき起こした。アリスはねぼけなまこでドクターを眺めて何事かと訊いた。ドクターはサンジェルマンと喧嘩したらしい。アリスにサンジェルマンとの付き合いを絶った方が良いと忠告してきた。

不機嫌なドクターの様子に驚きながら、アリスは思案顔で応えた。

「サンジェルマンはおもしろい人だよ。
 この間廃図書館の窓から一緒に月を眺めていたら、
 サンジェルマンが月は誰のものかわかるかい?って僕に訊いたんだ。

 月は見る人を追いかけてくるから『僕のだよ』って応えた。
 サンジェルマンはそれは違うと言って、こう続けた。
 月も太陽も地球の自転も、サンジェルマンの為だけに存在している。
 僕が今吸っている大気も、サンジェルマンのものだって言うんだ。

 そして今度は、星に祈ったことはあるかな?って僕に訊いた。
 死んだ母さんやサダルスードにもう一度会いたい。
 星を見ていて、そう願ったことはある、と応えたよ」


神妙な顔をしているドクターに、アリスが尋ねた。

「サンジェルマンがそのあと、なんて言ったかわかるかい?」

「見当もつかないが、イヤな予感はするね」

「子供の夢をぶち壊すようで悪いが…そう前置きして
 流星もサンジェルマンの為に存在してるって言ったんだ。
 残念だけど君の願いを叶える星ではない…ってさ。なんだか嬉しそうに笑ってたんだよ。
 所有できないものを所有していると信じる心は、比較を持たない人だけの特権だよね。
 サンジェルマンは人がどうとか関係ないんだ。相手が子供だからとか偉い人だからとか全然。
 月は誰のものでもないけど、あの夜見た月は、僕とサンジェルマンの月だった。
 僕はそういう特権を大人になっても大事にしてる人は好きだよ。子供っぽいけどね」


アリスはおかしそうに笑ったが、ドクターの表情は険しくなるばかりだった。先ほど彼の錬金術としての価値観を確認したからだろう。ドクターには微笑ましい内容には聞こえなかった。

「何世紀も生きている人間がそれとは恐れ入ったね。自己中心的すぎる。
 彼にとって人類とは、本当にモルモットにすぎないんだろう」


「僕もモルモットってこと?」

「それを身をもって知る前に、君はサンジェルマンから離れた方が良いな。
 ここからは忠告ではなく命令だが、彼と手を切り給え。
 君の人生が君の手に負えなくなる前にだ」


アリスにとってサンジェルマンは初めての友人だった。忠告通りサンジェルマンと離れても、アリスの意志ではなく、ドクターの主観を持たされて行動しただけにすぎない。

「サンジェルマンは友達なんだ。人の感情で友達を嫌うのは変でしょ。
 僕はサンジェルマンが好きなんだ。ドクターと友達でいる理由と一緒だよ。
 同じようにサンジェルマンからドクターと離れろと忠告されても、
 僕は人の感情で友達を嫌うのは変だから嫌だ、と応えるよ」


「そういう気持ちを理解できる心を、奴が持っていればいいんだがね。
 ところでアリス君よ、君を診察してから考えてみたのだが、
 君はもしかしたらウェンディゴ症候群ではないのか?
 イーストエンドの迫害で、君がろくに食事もしていなかっただろう。
 ウェンディゴ症候群とは極度のビタミンC欠乏により、
 過剰に動物性タンパク質を求める病理だ。君の場合口にしたのが人間だった。
 今なら人間に戻れるが、それを伏せているサンジェルマンと共にいれば、君は破滅するぞ」


「僕は病気なの?」

「その可能性もある。元に戻る気があるなら治療しよう。
 私は君が人喰いで、犯行に都合が良いから君と友人になったわけではないのだ。
 今は医師としていってるんだよ、わかるかいアリス君」


ドクターは切迫した口調で言っている。どうしてもサンジェルマンと縁を切らせたいらしい。

「僕はこの性質で過ごした時間が長すぎたよ。
 普通の食物は身体がうけつけない。治しても拒食で死ぬだけさ。
 ドクターの役に立ったり、人喰いの性質を生かして生きるという選択の方が
 僕の選んだ人生として悔いがないんだ。それにドクターのしたいことはいいことなんでしょ。
 子宮標本は癌の研究に役立つし、ドクターからすると淫売ってのは人のちんこを貶す悪魔なんだよね」


アリスが目を輝かせながら尋ねると、ドクターが狼狽して応えた。

「え、ええ、まあそうだが…」

「僕は秩序を守る。悪魔を退治するよ。
 明日約束通りの時間でいいんだよね。お休みドクター」


ドクターはやりきれなくなって霊園を後にすると、自分がサンジェルマンに向ける悪感情は、同族嫌悪ではないかと思い始めた。ドクターがアリスにしていることは、サンジェルマンと大差ない。痛む良心があるかの違いで、ドクターもサンジェルマンのように実行するタイプの人間だった。



セントラル・ニューズ・エージェンシーには、切り裂きジャックからの手紙が頻繁に届く。これはドクターとアリスが、おふざけで書いたものだった。

=以下抜粋=

親愛なる編集長殿

警察は私を捕まえたなどと抜かしているが、連中にはまだ私の目星すらついていない。
偉そうに筋は掴んでいるなどと話していたのには笑ってしまった。
皮エプロンが犯人とはお笑いだ。
私は売春婦に恨みがある。捕まるまで切り裂いてやる。

この間のは手際が良かった。レディに悲鳴を上げる暇さえ与えなかった。
連中は私を捕まえられるかな?
私はこの仕事を楽しんでいる。またやりたくて仕方がない。
もうすぐ私のささやかな愉しみを耳にすることだろう。

この間の仕事で手に入れた赤い液体をビール瓶に入れておいたのだが、
糊みたいに乾いてしまって使えやしない。
だから赤インキでこれを書いている。赤インキでも迫力あるかな?はっはっは。

次の仕事ではレディの耳を切り取って警察に送るつもりだ。
この手紙はその時に公開してくれたまえ。
私のナイフは切れ味がよい。機会があれば、早速仕事に取り掛かるよ。

切り裂きジャックより

=以上抜粋=

アリスは売春婦に恨みがあるなどと、でたらめを書いた。赤インクを葉書に垂らして遊んだりもした。ドクターが耳を贈ると書いたにもかかわらず、アリスが耳をつまみ食いしてしまった。よって約束は守られず、不機嫌になったドクターは、アリスに拳骨を喰らわせた。二人は、苦しい言い訳をした葉書を、また編集長殿に送った。



「ゴッゴボッ!!」

モーテルの一室で、最後の犠牲者のメアリ=ケリーがメスで喉を引き裂かれ絶命した。そこは娼婦を営む彼女の自室だったが、悲鳴は猿ぐつわで塞がれ、かき消された。ドクターは死体に跨り淫らなやり方で思いを遂げると、女をメスで切り裂いた。

「なんてこった、こいつも子宮を患ってる!娼婦はどれもだめだな。
 やはり今夜でお終いにしよう。では、いつもの講義の時間だ。
 今日は何を知りたい、アリス君」


ドクターは、メスで女の子宮を取り出した後、がっかりした様子で言った。その様子を眺めながら、アリスはベッドサイドに行儀よく腰掛けている。アリスは、頬にこびり付いた返り血を拭いながら言った。

「臓器の値段が知りたい。取り出し方も。
 僕は人でなしの屍体をさばいて売る商売がしたいんだ。
 証拠(アラ)はすべて僕が食べるから、完全犯罪さ」


 アリスが口元をにやりとさせながら言った。

「やれやれ、末恐ろしいな君は。実行するって顔に書いてある。
 売り物にしたかったら、すぐに洗浄して電解質のゼリーに移すんだ、
 標本でいいならホルマリンにつっこんどくと良い。
 これらはあらかじめ用意してからやった方が良いね・・・・・・そして・・・・・・」


ドクターは、屍体を仰向けに寝かせると、解剖の準備に取りかかった。カバンの中から手際よく、手術用器具と、消毒用のアルコール瓶を幾つか取り出す。大きめの金属トレーの中に、電解質のゼリーを満たした。ドクターは、解剖手順を教える為に、先に割いた女の下腹部を縫い合わせている。アリスはその間、金属の洗面器に薬品類を注ぎ、ガーゼや器具をその中に浸し、人体解剖の下準備をしていた。ドクターは下腹部の縫合が終わると、アルコールを吸ったガーゼを洗面器から取る。それを、女の胸部から恥骨辺りにかけ、丹念に塗りたくった。皮の厚さを指で推し量っていたかと思うと、胸部に向けてブスリとメスを刺し入れた。

「夜は思うより短いのでね。少々手荒にいくが、しっかり覚えるんだよ」

メスを入れた咽頭(いんとう)から始まり、乳房の間から鳩尾(みぞおち)へ。鳩尾から臍(へそ)のあたりまでを回転させながら、一気に肉を裂く。まるで鳥の皮を割くような、鮮やかなメス捌きだった。ぱっくりと開かれた皮の間、胸の軟骨をべろりと剥がす。薄暗い蛍光灯の下、女の五臓六腑が、ぬめった光を不気味に反射している。ドクターはその状態のまま、臓器の名前と相場を、アリスに教えた。牛肉の塊を掴むように、臓器を掴み上げるドクター。先ほど説明した臓器に関する質問を、アリスに向かって投げかける 。アリスが間違いなく答えるのを確認すると、ドクターは臓器を身体から引き抜く。傍に置いた金属トレーには、質疑応答を終えた臓器達が並べられた。

「うわァ……酷く肺臓が悪いねえ、この女は。
 黒い染みがある肺は使い物にならんから、食べて構わんよ」


ドクターはそっけなく言うと、大小腸・膀胱の付け根をブツリと切り取った。それを腸と一緒に引っ張り出し、金属トレーの上にベチャリと置く。アリスは、金属トレーに並べられた、タバコと酒で酷使された肺と肝臓を見る。空腹だったにもかかわらず、食欲が失われていくのを感じた。

やがて女の体内が、がらんどうになる。ドクターは太い針と麻糸を取り出し、下腹部から順に、裂けた肉を縫い上げていく。その間、ドクターは一言も喋らず、迅速な針裁きで割れた腹部を縫合していった。縫合が終わると、女の屍体の眉間に、新しいメスを刺した。眉間から後頭部に至るまでの皮を、濁った音を立てながら一直線に切り開いていく。

アリスはそれを見ながら、自分が殺してしまったサダルスードの事を思い出していた。自分もああして、サダルスードを頭部から切り離し、死なせてしまったのだ。頭部の解剖を見るのがつらくなり、アリスが手術台から目を逸らしかけた時だ。ほんの目の前に、血のついたメスがあった。うろたえるアリスの表情を鏡のように写した切っ先が不気味に光る。

「よそみはいかんよ、アリス君。
 こっちはヤブ医者なりに真面目にやっているんだ。
 頭部は貴重な部品が山ほどあるぞ。その大きな目を開いて、よおく見てなさい」


ドクターの声には殺気が含まれていた。紳士的な物言いとは裏腹に、目は血走り、額に玉のような汗が浮いている。ドクターは口元を釣り上げ、顔面神経痛のような奇妙な表情で笑っていた。アリスはその様子から、ドクターが普通の人間とは違う事を、改めて認識した。ドクターは女の頭の皮を両目の下まで卸し、布の様に裏返した。取り出した鋸で、白い骸骨頭をギコギコと鉢巻型に引切る。下から表れた脳を、ドクターは鋏を使い、慣れた手つきで取り出した。

「凄いと思わないか、アリス君。
 この、たかだか二千グラムほどのタンパク質の固まりが、
 この世の全てを作っているのだよ。

 日夜、こいつの分解作用によるエネルギーで
 人間は音速でものを考え、原爆や中性子爆弾を製造し、人を殺す。

 異なる様々な宗教、階級社会、貧富の差さえ、
 この脳髄が描いた体制から生まれた物だ。

 スイッチ一つで何億人を殺せる物を作れるくせに、医療の進歩は牛歩並みだ。
 新しい病が発見される度、治す手段は後手に回り、人は為す術なく死んでいく。

 不治の病の前では、医者なんて無力なもんさ。
 スイッチ一つで全てを癒す仕組みなんか、考えられやしないんだ」


ドクター・クリームは、その取り出した脳髄を眺めながら言った。

「私は思うんだよアリス君。
 人間は、この高性能でちっぽけな細胞の悪魔を司令塔に置いた、
 誰かの操り人形じゃないかとね。

 世の中には、自分の脳の使い方さえままならない連中もいる。
 自分の頭で考えず、全てが右にならえの人間。
 己に美味しい話があれば、考えもなくそれに飛びつくバカ共のことだ。

 そんな私利私欲しかない連中に、私の両親は殺された。
 医者で金があったから。それだけの、実にシンプルでくだらん理由だ。

 そんな害にしかならん連中を使い、未来の新薬になり得る薬の実験をして、
 一体、何が悪いというのだ。
 わたしが毒殺魔だと?ふざけおって。

 今の抗生物質がどうやって出来たか知らないのか。
 高熱を鎮静し、伝染チフスを駆逐する、
 アスピリンもストレプトマイシンも、人体実験という犠牲の上に成り立っている。

 私は研究室の連中の、責任逃れのスケープゴートにされただけだ。
 あんな連中に下らん浅知恵を……このクサレ脳みそがァァ――――ッ!」


ドクターは金切り声を上げ、取り出した脳髄を床に叩き付けた。重力で潰れたそれを、磨き抜かれた革靴で、何度も何度も踏み抜く。人体の各器官を形成する三十兆もの細胞群。革靴でそれらを一粒残らず押し潰すように、グチャグチャと引きずり回している。潰れた脳髄と一緒に、ドロッとした脳漿が床に広がった。アリスは心臓を掴まれたように、その場に直立し、動けなかった。唖然として、ドクターの様子を見ていたが、彼がなぜ毒殺魔と呼ばれるのかを理解した。

ドクターのメス裁きは素人目から見ても、迅速鮮やかで見事だった。本人はヤブ医者を自称していても、必死に法医学を学んだはずだ。だから殺人者に身を落とした今でさえ、医学のルールに則る。人喰いの自分に見せるためだけの屍体解剖でさえ、正確な手順でやろうとする。医師としての純粋さと熱心さを持って、踏み越えてはならない倫理を超えてしまった。 アリスは慰めはせず、ドクターの後ろ姿を見ていた。

「脳髄は人間の中で一番優秀な部位だけあって、脳移植は難しくてね。
 移植された脳が、前の持ち主の記憶を持っていて、
 以前の脳髄の持ち主しか知り得ない情報を、
 移植された人物が喋り出すなんて怪現象も起きたりする。
 何にせよ、悪魔のようでいて賢く、摩訶不思議な情報の固まりだ。
 君は間違っても、こんな真似はしないように」


ドクターは何事もなかったかのように、アリスの方にクルリと身を振ると淡々と喋った。 その後も、解剖は続いた。ドクターは女の頭に皮を被せ、縫合すると、屍体を裏返し背部の解剖にかかった。胸部、腹部、頭部、背部という手順に乗っ取りながら、アリスに人体の構造を教える。女の体がドクターの手によって、縫合された皮一枚の張り子になった。

ドクターはアリスに、それを使って逆解剖をしろと言った。今と同じ手順で身体を捌き、臓器を全て元の位置に戻せというのだ。 ドクターに指導を受けながら、内臓を元の位置に戻し、縫合まで済ませた頃だった。 さすがに疲れたのか、アリスはその場に座り込み、一息ついていた。ドクターはなおもせわしなく動き、ガーゼと海面を、アルコールの洗面器から取った。 逆解剖を終えた屍体にこびり着いた血痕を、丹念に拭き取っている。アリスはそれを見て、ドクターに何をしているのかと尋ねた。ドクターは、もはや性別の判別すら難しい、目の前の継ぎ接ぎの人体を指さし言った。

「今度は助言なしの本番だ。私がいいと言うまで、君一人で解剖したまえ」

ドクターは新しいメスをアリスに差し出しながら、笑顔で言い放つ。疲労を通り越し、脳内にアドレナリンでも分泌されたのか、アリスは妙に興奮していた。偏執狂のように、メスと鋸と鋏を駆使して、人体を切り裂き、臓器を取り出し、縫合した。ドクターが『もうやめたまえ』と言うまで、何度も解剖と逆解剖を繰り返す。数時間後、ようやくドクターのOKが出た。

「フム。だいぶ手際が良くなったな。
 そろそろ生身の人間が、剥き身の人体模型に見える頃だろう。講義は終了だ。
 腹が減っただろう。あとは、この解体された臓器を食べなさい」


ドクターはそう言うと、使い古した医学書をアリスに手渡した。アリスが医学書をめくると、各々のページにたくさんの付箋がしてあった。『もう助言はしない、覚えるまで手を止めるな』先ほど、ドクターに厳しく言いつけられ、必死に覚えた解剖の手順。臓器の状態による値段の相場。アリスに分かりやすいように、丁寧にメモしてあった。食人によって起こる伝染病の対処法のページにも、同じく付箋がしてある。疲労で震える両手でそれを受け取ると、アリスは涙目で、ドクターにお礼を言った。その目には、ドクターが剥き身の人体模型に見えていたが、黙っていた。

切り裂きジャック事件の最後の犠牲者は、他の誰よりも残酷な殺され方をしていた。それはドクターが、アリスに人体解剖を丁寧に実演し、学ばせたからだった。てを終えた頃には、外も明るくなり始めていた。解体された継ぎ接ぎ贓物も、金属のトレーの上で朝日を浴びている。それを見たアリスが言った。

「このままにしていくには、ちょっと綺麗すぎるよ、隠ぺいしよう。
 これじゃあ、医者が犯人ですって説明してるようなものだよ」


アリスはつまみ食いしながら、取り出された臓器を、机の中に隠した。剥がされた皮膚や、切り取られた乳房、鼻などはテーブルの上に積み上げる。片手は、空洞になった腹の中に無理矢理押し込んだ。腸を部屋の額縁に潰し入れ、モーテルの一室を狂気的に飾り付けていく。

十分も経つ頃には、殺風景だった部屋が、血と肉のパノラマに姿を変えた。医師の手により何度も解剖された二十五歳の女性。それが今では、キチガイに殺されたとしか思えない惨屍体に変貌を遂げている。

「みてごらんよ、いい朝じゃあないか……」

爽やかな朝日が差し込む、生臭い部屋の中。奇怪な光景を四方から眺め、二人は晴れやかな表情で呟く。>彼等に美的センスは皆無らしかった。事後処理を終えると、二人は手を繋いで、人知れずモーテルを後にした。

数時間後、部屋の惨屍体を発見する清掃婦。彼女が断末魔に似た悲鳴を上げ、その場で嘔吐したのはいうまでもない。この事件を最後に、切り裂きジャックはイーストエンドから姿を消す。 好き勝手に振る舞い、思う存分切り裂いた、いい加減な事件だった。それが、のちに未解決事件として迷宮入りになり、サイコキラーブームに映画化、話題を博すなど、当時の二人は思ってもみなかった。切り裂きジャックは、ロンドン一有名な猟奇殺人犯として、今でも語り継がれている。



隠れ家の霊園に戻ってくると、アリスはドクターに、あるお願いをした。

「ドクター、僕の歯を全部抜いてくれるかい」

アリスが真顔で言うと、ドクターは驚いた。

「抜いたら顎の咀嚼(そしゃく)を強める手術と、このダイヤの歯を埋め込んで欲しい。
 手術代は払うから、ドクターはそれを逃亡費用にしたらいいよ」


アリスは三十粒のダイヤモンドの歯と、残りの札束を全てドクターに手渡した。ドクターは、手術はするが金は要らんと言うと、アリスの改造手術に着手した。 二日後、顔全体をミイラのように包帯で覆ったアリスが、筆記でドクターにお礼を言った。

『ありがとうロンドンで一番、優しくて残酷なドクター』

ドクターはそれを見るなり、涙をこぼした。

「人生でこんなに嬉しかったのは初めてだよ。
 こんなに不思議で不気味な一ヶ月も始めてさ。
 ありがとうアリス君、いや、ミスター・イーター!! 」


ドクターは、アリスの小さな手に握手を求める。その際、アリスのハンドイーターに手を噛まれ、悲鳴を上げていた。数日後、ドクター・クリームは、完璧な子宮標本を求めてロンドンを後にする。 その前日、ドクターは、アリスにある置き土産を与えた。

「いいかい、君の背が、この墓石の傷まで大きくなり、
 英国紳士を名乗るに相応しい男になった時、この包みを開けなさい。
 それより早く開けたら、きっとがっかりする事になってしまうからね」


アリスは、その場でプレゼントを開けてしまいたかったが、言いつけを守り、包みを開けたい衝動をなんとか抑えていた。その間アリスは、ドクターのいた地下診療所に移り住んだ。
そこで、闇医者を名乗る傍ら、ロンドンの『不要人物の解体業』 に勤しむ¥んだ。 ドクターのような紳士を目指し、紳士的な振る舞いにも気を遣った。

アリスの背丈が墓石の傷に追いついた時、ドクターが残したプレゼントの箱を開けた。中には、黒くてつやのある、漆塗りの小洒落たステッキ。立派なシルクハット、黒絹のロングコートが入っていた。防腐剤が入った箱に丁寧に仕舞われたそれは、未だに新品同用だった。
全ての品が、今のアリスの背丈にちょうど良く仕立ててある。幼い頃に断念した念願のステッキも、すぐに手に馴染んだ。

『親愛なる紳士アリスへ』
包みの一番下に、そう書かれたカードが添えられている。ドクターに、一人前の紳士と認められのだ。アリスは真夜中の霊園で、不気味な高笑いをした。両手のハンドイーター達も、それに木霊するように笑った。アリスはその晩のうちに、ドクタークリームのような男爵髭を整えた。解剖器具一式をアタッシュケースに詰め、手にはお気に入りのステッキ。昔立てたプランに基づき、アリスはイーストエンドを後にした。



一方、ドクターの身代わり看守が、毒薬漬けで収容されているシカゴ刑務所。身代わり看守は、牢に配られるタイムス誌で、ジャック・ザ・リッパーの事件を知った。 彼は誌面の一文を見て、震え上がった。

「犯人は子宮を傷付ける事なく取り出す術を知っている。
 精肉工場の皮エプロンか、医者である可能性が高い」


あのクレイジードクターは自分を身代わりにする前に、

「今女の子宮は高く売れる、
 このあいだ病理学研究所の職員がシカゴ刑務所にやってきて、
 死んだ女囚の子宮を回してもらえないかと持ちかけているのを盗み聞いた。
 大量の子宮標本の入手は金になるのさ」


自慢の男爵髭を弄びながら呟いていたのを思い出した。身代わり看守は、犯人はドクター・クリームだ! と叫びたかった。しかし彼は今、そのドクター・クリームの身代わりをやらされているのである。自分が切り裂きジャックだ、なんて言えるはずもない。彼は絞首刑に処せられるまえ、「わたしは、ジャック……」と言いかけて死んだ。 自分はその人物の身代わりであると、執行人に伝えたかったのかもしれない。 以後、ドクターは切り裂きジャック事件の犯人候補に上げられる事が多くなった。だが、本物は、今どこで何をしているか分からない。未だ完璧な子宮を探し回り、女の下腹部をメスで切り裂いているのかも知れない。



chapter3

数十年後。
不気味な人喰いの子供、大人になったアリスは、臓器売買で巨万の富を得ていた。 見た目は紳士、ドクター・クリームにそっくりな立派な髭を蓄えて。 彼は裏社会に身を置きながら、その能力を買われ、英国政府お抱えの始末屋になっていた。刑務所で死んだ囚人の屍体を食べるなり、臓器を抜き取るなり、彼の自由にしていい。 それと引き替えに、人喰いのアリスに仕事を請け負って貰う。

英国政府にとって邪魔な存在、反抗組織・不穏分子の処理が主な依頼だった。アリスはやがて、英国政府・左派政党を通じて共産同盟にもパイプを持つ。 のちにアンダーグラウンド一、凶悪で厄介な食人鬼として名を馳せるようになる。

アリスは幼い頃、生きる為に母親と兄弟を食べた。イーストエンドの住人達も、生きるために弱者を犠牲にしている。アリスはそれを、スラムで屍肉を喰らいながら何年も見て育った。その一方、セントラルロンドンでは、造作もなく高級住宅街が建てられている。 湯水のように散財する人々の裏で、日々を生き抜くことすら困難な人間がいる。 それは、同じ国の、ほんの数キロ離れた場所で起きている出来事だ。 イーストエンドの労働者達は、その事に不満を抱いており、アリスが、その気持ちを実感として痛いほどよく知っていた。



アリスは幼い頃、図書館で読んだ本の中で、ある経済論を見つけた。経済学者カール=マルクスの論文、『資本論』と『共産主義宣言』。資本主義が成長しきった後に、共産主義へシフトする。生産力の永久機関のような経済システムを作る為の経済論だった。だがそれは、性善説を前提に作られた机上の理想に過ぎない。人間の欲に触れる内に、理論はどんどん歪められていくのだ。アリスはこれを、欠陥付きの恐ろしい思想だと感じた。

共産主義は、固有財産を全て同じものとする所から始まる。一党独裁型の行政が、労働者に平等の労働報酬を与えるというものだ。勤勉な者・怠惰な者にも一律平等の結果とは、働きに公平ではない。勤勉な者は働くほど損をし、怠惰な者は怠けても同じ報酬を得られるからだ。<労働意欲は徐々に減退していく。国益が減り、国内は平等に貧しくなる。

国家は国民の働きを監視する為に、監視国家となる。政治に不都合な情報が入るのを防ぐため、外部からの情報も規制される。それをおかしいと感じるような政治家・言論家・知識人。一定量の知識を持つ技術者・教師・聖職者。国にとって不都合な思想を、国民に伝達する手段のある創作家。その者達はクーデターを起こす恐れのある不穏分子とされ、粛清される。創作物・流通文化にも全て検閲が入り、不都合な物は規制の対象になる。国にとって都合の良い情報しか流通しなくなるのだ。

また、信仰の過程で道徳や倫理を学ぶ宗教。それらは人の心を、偶像に依存させてしまうアヘン(麻薬)として認められない。 国内の精神的な文化は全て破壊される。

やがて国内は倫理のない人間、知識のない人間ばかりになる。言論は統制され、情報も規制され、外界と遮断された国。その閉じた国家の中で、全体主義に添わない者が「悪」とみなされ粛清される。政府は、知識を持たない子供達から洗脳教育し、赤衛兵を作った。の教えを正しいと思いこんだ少年達が、反乱分子を殺してゆく。

独裁政府は公務に従事する地位にいながら、財産を独占する。そんな人間がいる限り、本人の意志とは無関係に、不幸な境遇の者が作られる。限られた情報の中、それに疑問を抱く思考力もない。人々は延々と、果てのない労働に就かされるのだ。平等に貧しく餓死者が増加し、国家は維持できなくなる。やがて他国を侵略せざるをえない状況になり、戦争が起きてしまうのだ。

ソ連のスターリン、カンボジアのポル=ポト。労働者を扇動し、労働党決起させ、共産革命を行った指導者である。二人の独裁者は、上のような恐怖政治を行い、大量粛清(虐殺)を行っていた。



現在イギリスは、工業化による失業者、耕地のない農民、貧民で溢れており、資本側と労働側の格差が大きく、労働者は富裕層に不満を持っている。共産革命で崩壊する直前の二国と全く同じ状態であり、非常に危険なのである。「一律平等」の思想宣伝に、人々が染まり易くなっているのだ。イーストエンドの労働層は、教養のない者が多い。 先を見ず共和党の「民主主義」「平等」の公約に扇動される恐れがあった。

アリスは不気味な容貌と、特異な性癖のせいで酷い迫害を受けた。酷い思い出ばかりだが、故郷には兄弟や母の思い出がある。日々を生きる為に必死なイーストエンドの労働者や失業者たち。彼らが政治家のイデオロギーに利用され、革命の兵隊にされる。 用が済んだら使い捨てられ、反発すれば粛清の対象にされてしまう。

アリスは幼い頃から、労働層の不満を迫害という形で身に受け、目の辺りにしてきた。彼らが現在、何を求めているかなど手に取るように分かる。そこでアリスは、共和党がプロパガンダを叫ぶ前に、一つの理想を掲げた。

――― Wonderland in Alice ( アリスの不思議な国 ) 。
アリスの不思議な国のように、あらゆる性癖・生態を持つ者が暮らす場所。
トランプの女王のように、アリスがルールを作り支配する摩訶不思議な世界だ。

長い間、イーストエンドで堕落した生活を送っていた労働者達。今更、表社会で真っ当な生活など送れないと思っている。その不満の捌け口を、組織の「武力」に変える。結果は「裏社会での名声」と、「莫大な富」という形になる。裏社会で最も悪名高い、食人鬼のアリスが全ての責任を取るのだ。

「イーストエンドの労働者の諸君、君達は自分を貧しいと思うかね?
 真に貧しい者とは、貧富に関係なく、志を失った者の事を言うのだ。
 君達に生涯を尽くせる大儀を与えようじゃないか、君達はまだ始まってもいない
 明日を捨てられる勤勉な者だけついて来たまえ、今日の生活の保障はしよう」


それは思想宣伝よりも単純明快で、彼らの目に魅力的に映った。アリスは同志ならば等しく受け入れ、厄介事の面倒も見る。イーストエンドのギャング達はアリスをボスとして慕った。

その後、イギリスで市民革命が起きた。資本側のブルジョワ層は、思想的に対立する共和党を支持しない。格差問題の不満を抱えた労働層五万人弱は、アリスの組織に入ってしまった。結果、共和党は支持を得られず、労働者による共産革命は起きなかった。 英国はそのまま、資本主義の工業国として発展していった。



一方、ギャング達の集まりは、世界に根を張る犯罪組織になった。それは『屍体喰らいの悪魔(カンニバル・コープス)』と呼ばれた。彼らは、アリスの障害になる人物・機関・施設を、片っ端から排除することを望んでいる。その矛先はまず、裏社会の同業組織に向けられた。 アリスは解体業で得た莫大な報酬金で武力を部下に支給し、別勢力を次々狩らせた。 組織を取り込み同胞を増やす。世界規模でそれを行っていた。

アリスは、英国政府の共和党・共産同盟から解体業を請け負っている。 それ以外は、特に目立った行動は取っていない。彼の部下達がやっていることも、裏社会の内部抗争に過ぎない。後にその組織を使って、事でも起こされたらとんでもないことになってしまう。議員達は、密かにロンドン警視庁D11部隊を使い、アリスを処理しようとした。

「今まで共和党から請け負っていた、表に出せない仕事の記録。
 私が死ねば、全国にいる同胞達が、それを世界中のネットワークにばら撒くだろう。

 君達や各機関は責任を負わされ、上層部は雁首揃えて御退陣などど
 大変な事になるだろうが、構わないのならどうぞ殺りたまえ。

 暗殺にせよ、不慮の事故死にせよ、私が死んだらどの道、
 君達に不都合なデータは流出すると思ってくれていい
 私の裏社会での食事は気にせず、君たちは君たちの好きにしたまえよ」


痛烈な釘を刺され、議員達はアリスに手出しできなくなってしまった。殺人鬼であるアリスを全力で逮捕しようとするICPOにも、政府の圧力がかかる。真っ当な動機で、アリスを捕まえようとする者達の捜査も頓挫していた。



法の外でギャングを率いて人間を食べ続ける、人喰紳士アリス。彼が失脚させたい、英国内の人間の頸動脈は既に掴んでしまった。部下を使い、少しメスを入れるだけで、彼らはあっさり絶命するだろう。彼らが再び革命を叫びだしたとしても、即座に叩き潰せるだけの武力もある。それらの粛清は、共和党・共産同盟の内部抗争として処理し、表面化させない。

アリスが十二歳の時に決めた、将来の目標。
知恵を欲のために使う人間。思想を食い物にする人間達。それらを、イーストエンドの父・ドクター仕込みの解体業で排除する。英国に災いをもたらす者を、さらに残酷な手段で食い尽くす事だった。

食物連鎖の頂点に立つ人間は、地球の環境・システムを維持・運営する責任がある。人間を一人育て上げるのに膨大な動植物の命が失われるからだ。自然界には弱肉強食の自然淘汰があるが、人間界にはない。地球上に人間を喰う『天敵』がいないため、集団生活を破壊者する最も危険な存在も人間なのだ。人を喰う能力は、人類の天敵となり、破壊者を淘汰する為の物だとアリスは考えている。 よって過去の歴史から学び、破壊者に該当するものを残らず喰う事に決めたのだ。

同郷の部下達にとって、この世で最も畏怖するものは人喰いのアリスだった。だが共に行動する内に、彼らはアリスの目的に気付き始める。 アリスは部下を恐怖で支配するどころか、礼儀正しく接し、教養を与え、同志として敬意を払う。次第にその振る舞いの意味も分かるようになった。組織のボスであるアリスは、解体依頼者を『解体しない』。同じデータの臓器をアジトの保管庫から取り出し、依頼主に引き渡す。 死亡した事になっている人間を保護し、組織へ連れ帰ってくるのだ。

「君たちに与えた武力で、彼らの護衛をしてもらう。
 彼らの話は、私の話と同じように、よおく聞きいて理解し給えよ」


保護されたのは教条主義の危険性を訴える、知識人・言論家・政治家だった。ロンドンには共産主義者同盟、コミンテルンという国際的秘密結社が存在する。当時全世界の共和党は「同盟支部」であり、メンバーは議員のポストに就き活動していた。革命の国際的連帯を目指し、運動を展開する議員達のネットワークだ。既に革命で転覆した国、傀儡活動を推進し国内で派閥争いが起きている国。それらに、共産同盟が資金を送っているのだと彼らは話した。

支配者・破壊者ほど権力に守られる。その為アリスは、まず英国の左派政党・共和党に取り入り情報を得たのだ。保護された彼ら知識人の話を聞き、部下達の胸中は怒りと焦燥感で震えた。アリスではなく、共和党の思想宣伝に乗っていたら。革命後、他国で虐殺されている労働者の姿は、自分達だったかもしれないのだ。

カンニバル・コープスに配属直後、アリスに「潰せ」と命令された組織。それは裏社会で暗躍する、革命推進派の裏政治組織だったのだ。死体喰いの悪魔は、結果的に英国の災いも呑み込んだ。

「我々は救いようのない悪だ。
 間違っても、『自分達は正しい』などと自惚れないでくれ給えよ」


アリスは、組織が正義であると勘違いする部下達をきつくたしなめた。

「世界中にコミンテルンのパイプがあるということは、それを断たねばならんのだよ。
 資本主義国が迎えるであろう経済恐慌。
 経済混乱に乗じて、また労働党が活性化するだろう。
 君たちのような無知なる労働者に再び「平等なる民主主義」を掲げてだ。

 彼らが指揮する裏組織を潰した君らは、実態を見たと思うが、
 連中がやっているのは反共言論家・政治家・政治団体の処理、
 思想のプロパガンダだ。裏社会もねじれた思想に染まっているのだ。

 工業で成長する英国は、恐慌で打撃を受けるだろう。
 再び貧富の格差が広がり、今度は世界レベルで危ない状況に陥るということだ。

 経済恐慌が世界規模で起きた場合、
 軍需景気を利用し景気回復を図る戦争、第二次世界大戦が勃発する恐れがある。

 それを未然に防ぐために、次は世界だ。
 裏社会にはびこる、コミンテルンの支部を叩き潰しておかねばならん。

 私は表向き、英国内外のコミンテルンに雇われている解体屋だ。
 連中の情報は苦もなく入ってくる。今後のプランも立ててある。

 仮に私が志し半ばで死んだとしても、
 君たちが関係者のデータを、世界中にばらまくことで、
 少なくとも英国に関係する者は全て失脚するだろう。

 しかし、それでは枝の一つを切ったに過ぎないのだ。
 世界に残る根があれば、また邪悪な枝が、英国にまで届いてしまう。

 世界規模で、一般人がそういった危険なものに触れる前に継承を鳴らし
 国を引っ張っていく優秀な人間が大量に必要なのだ。

 私の雇い主はそういった人間をターゲットにし、解体依頼を出してくる。

 我々は正しいが故に消されてしまう予定の人間を、世界規模で集め、
 私設の政治団体に引き渡し、保護する必要がある。

 我々は、裏社会の政治力を持つ組織を食い尽くし
 全ての組織力を一つに凍結し、表社会から切り離す。
 そして裏社会をゼロの状態のまま管理し続けるのだ。

 ――― それが、Wonderland in Alice ( アリスの不思議な国 ) 。

 我々が真の意味で裏社会を支配するために、私は諸君と共に、
 世界権限を持つ悪の力を行使し、世界の偽善者・小悪党を残らず喰うぞ。

 それは殺人鬼の私と、生粋の悪党である君達にしか出来ないのだ。
 手段を選ぶ正義には、出来ない事だと覚えておき給え」


アリスはそう言うと、広くて清潔な書斎の中で、取り寄せた小包を開けた。 『ロイヤルドルトン』のグランド・クラシック。アリスから手渡された紅茶缶を受け取ったメイドが、銘柄を見て悲鳴を上げた。それは、普段アリスでも飲まないような高価な茶葉だったからだ。

「英国人は、空気と同じくらい紅茶を飲むものなのだよ
 大事を起こす時ほど、英国人には紅茶が必要だ
 いかなる時も余裕がないと、男は紳士的な振る舞いなど出来ないからね」


部下達は清潔な身なりで整列し、アリスが与えた黒い礼服に身を包んでいる。組織内に教育部があり、礼儀作法を厳しく叩き込まれた為、皆鋭いが聡明な目をしていた。昔、アリスが紅茶を煎れて与えてくれたドクターに感じた感情。元労働者の部下もまた、それと同じ感情をアリスに対し持っていた。



アリスの部下達は、市民革命後、発展した英国を暗い裏社会から眺めていた。労働環境は改善され下水設備も整い、疫病に冒されることもない。子供達が鉄工場で、死ぬまで働かされることもない。女は身体を売らなくても生きていけるし、不幸な出生の子供も減った。 ジンの代わりに、清潔な水が飲めるようになり、住人の顔色も良い。イーストエンドに残った同郷の労働者達は、働きながら笑っている。真の友愛は苦難の中でしか生まれず、理想とは胸の中にあるものだ。表社会の日向舞台で努力してきた彼らへ、対価が払われたのだ。日常と彼らから離れ、ギャングは裏社会で生きる。彼らを利用する悪党を、同じ悪党である自分たちが跡形もなく片づけるのだ。



「やあ」

暗がりの中、ずぶ濡れの少年が声をかけてきた。アリスはイーストエンドの路地から、地下診療所へ向かう途中だった。少年の手には、サンジェルマンの依り代となっている古い童話がある。

「この本は大事にとっといてよ」

サンジェルマンの入った少年は、懐かしい童話をアリスに手渡し、続けた。

「ロンドン橋から川に落ちて死んだ子供の体を借りてるんだ。
 この子は孤児で、誰も死を悼む人間が誰もいない中、おぼれて死んだ。
 弔いに、私がこの子供の夢を叶えてやることにした。

 君の生き方は、私とだいぶ違うようだから、興味深かったよ。
 もう錬金術師の私では、力になることができないと思う。

 私もしばらくは人間として生きて、君のように子供でも育ててみるよ。
 協力者がいた方が、君の脳のチャンネルを開く促進になると思うからね。

 僕の名前は今日から舞台役者・演出家のロウランドだ。
 何年後かに、とびっきりの舞台を君に見せるよ!」


そう言い残すと、サンジェルマンを宿した少年は走り去ってしまった。アリスは懐かしい童話を手に、ビックベンの時計塔が告げる真夜中に立っている。走り去った少年と同じ年頃の少女が、アリスの元に走ってきた。

「なあにおじさん、また子供拾ったの?」

サンジェルマンの岐路を見送り、足下の少女を見た。長い金髪を夜風になびかせ、利発な蒼い瞳で真っ直ぐアリスを見つめている。負い目のある人間には出来ない瞳だった。アリスは昔の蟠りを精算する時がきたのだと思い、地下診療所に向かった。



「昔話でもしないかね、ドクター。
 実は私が霊園の現金を失敬して、このダイヤモンドの歯に変えてしまったんだ」


アリスは、今でも傷一つ無い、煌びやかなダイヤの歯を指さして言った。

「分かっていたよアリス君。
 そのダイヤの歯で、君が災いも一緒に食べてしまったので、
 今もこうして、ロンドンでゆっくり紅茶が飲めるんだがね。
 その歯が、今も続く縁になっているとは不思議なものだ」


あれからペンフレンドとして片時も連絡を欠かさなかった、ドクターがいた。彼を懐かしい地下診療所に招き、イーストエンドでの思い出を語り合っている。

「今まで手紙にも書かなかったが、私はあの時、娼婦達を殺した事を後悔している。
 ドクターの為といっても、詭弁にすぎないからだ。
 毎晩夢に見る。娼婦の腹を割き、内臓を取りだした光景を。

 あれがもし労働者である私の母だったらと思うと、
 我ながらとんでもない事をしたものだと思う。
 悪党を喰い殺し続ける私がこの世で最も恐れるものは、堅気の真面目な人間なのだ。

 人生を賭けて、極左を喰い続ける事を決めたのも、
 昔殺してしまった娼婦である彼女達、労働者の彼らに負債があるからだ。
 彼らを食い物にして苦しめる極左を喰うことで、私は負債を払おうとしているのだ。

 私のような人喰いが、『彼らの為』などと言うつもりはないが、
 そうでもしなければ労働者から部下になった者や、自分の過去への整理がつかんのだ。

 ドクターよ、過去の行いを悔いる心が、あるのなら私の組織で働いてくれないか。
 昔のイーストエンドの光景を乗り越える為に。私の心はあの時のまま止まっているのだ。

 できないというならば、申し訳ないがこの場で喰い殺させてくれ。
 消したい過去を共有する者がいる事は耐え難いのだ。
 全て終わったら、私も信じる正義に裁かれて死ぬつもりだ」


アリスはそういってうなだれた。入り口から、紅茶をトレーに乗せた少女がやってきた。ドクターは、少女とアリスを交互に眺めていたが、やがて納得したように口を開いた。

「人間になってしまったんだな、君は。
 私もそうさ。人でなしなもので、久しく忘れていたがね。
 医者として治療すべきは、他でもない殺した彼女らの子宮ガンだったとね。
 完璧な子宮標本を集め終え、大金を受け取ってから気付いたのだが、見ないふりをしていたのだ。
 今からでもいいというのなら、まっとうなメスを振るおうじゃないか」


ドクターはそういうと、少女から淹れたての紅茶を受け取った。

「またよくない事話してるのね。
 私、アリスおじさんのお嫁さんになって見張ってないと心配だわ。
 将来は立派な政治家になって、おじさん達が悪い事しなくてもいい世の中にするんだから」


少女はやりきれないような表情で言った。

「今日の紅茶は人生で一番美味しいよ、拾いっ子のお嬢ちゃん」

ドクターはそういうと、少女の頭を撫でた。

「拾いっ子じゃないわ、エリザって呼んでちょうだい。
 悪い事ばかりしてると、心に真っ黒な染みができるわよ。
 胸に仕込んだ硫酸みたいに、喜びや幸せも全部溶かしちゃうんだから!」


言葉の強い調子とは裏腹に、瞳はだけは心配そうにアリスとドクターを見ていた。

「お前が私を捕まえるだけで出世できる相談事だよ。よい子は早く寝なさい」

アリスが所在なさげに言うと、エリザは頬をふくらませて診察室から出て行く。小さな女王を見送り、アリスとドクターは最後の悪事について話し合うのだった。

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